昭和40年04月27日 朝の御理解



 お道の信心で言うところの助かり、おかげとどう言う様なおかげでなからなければならない、どう言う様な助かりでなからなければならないと、言う訳でもないけれども、教祖の神様のご信心振りというものから思わして頂いてです、自分の願いだけが成就したという事だけが、助かりでもなからなければ、おかげでもない、教祖の神様のご信心というのは、自分が助かった時に人も助かっておらなければならないということ。
 いわゆる自他共に助かるということ、私共がおかげというそのおかげはです、神も喜び、氏子も喜び、金光大神をもの喜びだという事になっておらなければ、私は私共の信心のおかげというか、喜びというか信心の妙というものは、そういうおかげを受けて行かなければ、私は本当の事ではない。これは大きな意味合いでいやあ、何でも大きくなって来るでしょうけれども、まあ信心は目ごもう、綿密に行かなければなりませんから、自分自身の小さい事からでも、その事をひとつ考えて行かなきゃいけない。
 例えば商売をすれば必ず商売敵というものが有る筈なんです。自分方だけが繁盛して、相手は繁盛しない事を喜ぶと言う様な心ではです、お道の信心じゃないです。ね、相手の事を一生懸命に祈られて、大体言うたらゆるみないと、例えばこちらの方のいわば、妨害をするとか、ね、反対に逆宣伝をするとかと言う様な、そう言う様を見ながらでも聞きながらでもです、そこにいわば神心を使わせて頂くというか。
 それでは相手が立ち行かん。そこを神様に詫び、そしてそこを願って、願い得れれる心、そういう状態が助かっていく姿だと私しゃ思う。お道の信心によって助かっておるというのはそういうものだと。まあ家庭の人間の、人間関係のことでもいい、ね、私の思い通りにした方がおかげだと思うのだけれども、家内は私の思うようにはしない、私の考えの方が本当だと思うけれども、子供は私の言う事は聞かない。
 利かんならもう利かんでもこっちだけがおかげ頂いておきゃいいと、いうのではいけない。まあ対外関係の場合なんかでもそう、私と親教会と言った様な場合でもそう、もういくら言うても解んなさらんならもう、椛目だけおかげ頂いときゃ良いのだから、そこがその、本当のおかげに成っていかんから不思議である。例えて言うならば、こちらの方が理屈の上で言うても整然としておる、向こうの方で言われる事は、どんなに考えても理不尽だと、と言った様な場合でもです、そこんところを分ってもらえるんです。
 その分かってもらえるための信心です。私は昨日そのへんの事を、土居の共励会から皆さん帰ってきてから、そんな話をさせて頂いている時、正義さんが言っておることです、「ほんなこっですもんね、信心ちゃとにかく人間が相手じゃありまっせんもんじゃから、信心ばかりは、やっぱり神様が相手ですけ」と、こう確かにそうなんだ。信心ばかりは、神様が相手なもんだから、やはり神様の目からご覧になれば、理屈も言うておる、いわばこちらに退去をしておる、いうならこちらの有り方の妨害をしておるような。
 その人でもやはり神様の氏子に間違いはないだろうか、私なら私を中心にして、私に関係のある皆んなの人達がです、やはり助かっていかなければならない。相手をもう落とし入れようという事ではなくてもです、相手はどうでも良いと言う様な事では、お道の信心は、有り方にもとるんだという事です。そこでそう言う様なあり方を実に、まあ言うならば、暇が掛る様に思うんですね。相手も助かっていかなならんのですから。
 面倒くさい様にあるんですけれども、んなら自分だけの助かると言う様な事では、すっきりとした本当のおかげになっていないから、また不思議なのです。ね、相手も助かり自分も助かり、所謂自他共に助かりということに、なってこなければならない。もうそれを私どもの場合、是は対親教会の場合なんかは、いつもそれを感じますですね。啄木の有名な詩の中に、『働けど働けど わが暮らし楽にならざり』と『じっと手を見る』というような詩が御座います。
 働けど働けどわが暮らし楽にならざりと、じっと手を見ると、いわば神様にお願いをすれども、お願いをすれども自分の思う様にならないと、例えば今相手の事がです、自分の思うようにならないというような、相手のことを思っておるのにもかかわらずです。私と家内の場合でもです、家内も助からなきゃならん、私も助からなきゃならん、なら私だけが助かっていけば、それで良いかというと、私たちが助かったんでは、私自身の本当の助かりにはならんということ。
 夫婦は一心同体という位だもの、家内も助かってもらわなければ、私の助かりはないという事、親子の場合でも同じ事ね、私達が助かって子供は助からんで良いという事はない、子供の助かりが有って初めて親の助かりなんだから、こども他人の場合でも同じ事、自分の店だけが繁盛すれば良いという事じゃない。そういう本当のいわば繁盛じゃない、助かりにならないという事がです、自分について色々向かって来、ね、
 言うならば町内全体が繁盛しなければいけないということ、ね、おんなじ同職の人達全体がやはり、繁盛のおかげを頂かなければいけないということ、そこをです私共は祈れども祈れどもスムーズにいかないという事。所謂商売敵としてその、それを感じる時にです、祈れども祈れども自分の思う様にならざりという事になるんです。だからいくら祈っておっても、ありどんが言う事を利かんから、私がおかげを頂ききらんから、もう仕方がないというという事をいわない。
 信心はないということ、祈ってやるのじゃない、祈らせて頂いておるのだとね、そういう時にです所謂、自分のその祈りというものは、果して神様の心に叶うような祈りであるかどうかとという事をです、じっと手を見るのじゃない、じっと自分の心の上をです。わがことに、なあるほどこう言う様な、こうゆういわゆる大体自分が助かるためばっかりああたが祈っとる、と言った様なことをほっと気がつく時です、なるほどこのようでは、神様が鍛えては下さるまいと言う様なものに突き当たるです。
 そこを打破していくというか、そこを自分のものにしていくというか、そこを大目に見ていくというか、そして愈々通らして頂いていると言う所にです、確かに信心の佳境というですかねえ、信心の妙境というか、それはそこにあるのである。そこに、そこからです、私が助かり人が助かり、私が助かり家内が助かり、私が助かり子供が助かり、私が助かり親教会が助かっていくというです、おかげの場というか、助かりの場というのが、発見してくる、それを神様が喜んで下さる、成程神様が対象であるということ。
 信心ばかりは神様が対象であるということ、神様心というものをです、分らして頂いて、成程神様の目からご覧になっても、家内も子供も、そういう自分の関係があるところの商売敵のそれすらがです、神様の氏子であるという、見地に立ってです、今言うとかなければならない、親を信じていかなければならんのであり、いよいよ自分の心をじっと見極めていかなければならんのであるということ。
 肥やしと思ってやっとるけれど、相手がおかげ頂だききらんかったら、もう仕方がないそこにはね、お道のご信心ぶりというものはない、そこにはいわば神も助かり、氏子も立ち行くという、金光大神もの喜びということにはなってこない。しかもそれは対象にならんと言う様になって、そこを極めて行ったら、おかげも一番スムーズで、有難いおかげになってくるということをです、私は体験していくそういう体験、そういう信心体験をです、お道の信心の助かりと言うのではないかと思うのです。
 愈々その内容においてです、豊かな大きな信心をさせて頂かねばならないという事が、分かります、ただ自分のことそれそこが成就すれば、本物になればそれでおかげだと、もうそこに腰掛けておる様な事では、お道の信心があまりにも小さいことになっていくんではないでしょうか。ね、私はそれをまあ大きな事ではなくてです、自分自身の小さい事の中からそういうことが、もうせからしか分からんならしよんなかと言った様な事ではですね、なくてからです、そう言う時にはです本当に一つ、自分がその事を祈っておる内容を、再検討してみる必要がある。
 所謂思いでも思いでも、自分の思い通りにならないと、ね、『じっと手を見る』というて、あげんでもなかどんなこんなじゃなくてです、じっと自分の心の状態というか、いわば内容というものを、検討してみると、成程この心の状態では、こう言う様な状態、中身ではです、なるほど神様には借りがあると、というところに、なるほど信心、お道の信心はどこまでも、神様が相手ですからねと、という正義さんのそれなんです。神様が対象なのだから、そういう信心を身に付けて行きたいと思うんですね。
   おかげ頂きました。